「正義の国」は何処に

独立国

ブコメでも書いたが、その昔、ヨーロッパでの貧しい生活や身分制度、宗教的・政治的迫害等がイヤになって大西洋を渡って逃げ出した人たちが作った国があった。まあ、元々は国では無かったけど。

この国は、自らを「丘の上の町」「地上の楽園」「新しきエルサレム」と認識していた。そこでは身分制の桎梏もなく、人々は契約によって結びついている。そして、誰もが努力すれば努力するだけ幸福になれる……少なくともそう信じられていた。

でもまあ、実態はそうではなかった、ってのは、もう知られたことですな。

そして、今はどんな状態かっていうと、アレなところも多いけど、当時に比べたら、「丘の上の町」に僅かながらでも近づいた状態にあるんじゃないかな?と思う。

だが、そういう状態になったのは、ひとえに人々の努力によるものではないか。

青空文庫で、桐生悠々の著作を読んでたら、次のような文章を見つけた。
桐生悠々 正義の国と人生

 私たちは今、不正義の国に住んでいるけれども人間の努力如何で、何時かは、尤もそれは天文学的数字の何時かに、存在せしめ得ると説明すれば私たちは兎も角も、これを信じ得る。事実地球上には、何万年何億年待ってもこうした完全な状態は存在しないかもしれないけれども、「与うるに条件を以てすれば」存在しないとは保証されない。理論的には、そう信ぜられる。
 だから、この「条件」が必要である。と同時にこの条件は突如として、天から降り、地から湧くものではない。皆人間の所作であらねばならない。しかも、この所作は進化する。進化の法則に従って漸化する。この進化、漸化の或段階では、この所作は人間に不幸を持ち来すこともあるけれども、それは最終のものではないということに気注くならば、悲観する必要はない。だが、この場合、不幸を必然的のものとして諦めてはならない。この不幸を幸福に転ずべく努力しなければならない。こうした努力があってこそ、人生に意義もあり、価値もある。


出ていって別の国をつくるとか、あるいは革命を起こすとか、そのようなウルトラCを望みたくなる気持ちは分からんでもないけど、やっぱり漸進的に少しずつ頑張って良くしていこう、っていうやり方が一番適当なように思うのは、私がへたれだからだろうか。