高等(大学)教育での学びには、なるべく多くの人がアクセス出来るようにあってほしい

(高等)教育について
この記事
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110913-OYT1T00818.htm
についてカマヤンさんが以下のようなことを書いていた。

日本は賢い人間を育てたくないのだろう。賢くない人々が実際には動かしているのだろうから。たとえば原発という非合理的な選択を選ばせたい人たちが日本を 動かしているのだろうから、そういう人が賢いわけがない。そういう人にもすら敵わない程度に知的訓練されない人を再生産したいのだろう。
原発を推進するために国をガタガタにさせたがる人々とか - カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記/はてダ版

これは私もそう思う。何か最近の教育をめぐる議論を見ていて、「若者には出来るだけ高い教育を受けさせて、良き市民を育成し、市民社会をつくり、民主主義をより強靭なものとする」みたいな高邁な理想が社会から失われてしまったのではないか、と思うことがある*1。これは非常に残念だし、また世の中にとっても良くないことだろう。

勿論、多くの人間(若者)がより高等教育を受けたところで、自動的に賢くなる*2わけではない。大学以上の教育を受けたところで賢くない人はいるし、逆に大学に行かなくてもこのような賢さを持っている人はいる。

しかし、この賢さを持っていない人が、それを養うためにはどの機関が適当か、ということを考えるならば、少なくとも日本においては、大学が最適なのではないか、と思う。*3少なくとも大学は、このような意味で賢くある(賢くなる)ことを(建前であっても)阻害しない。

特に高等教育の公的支出を削減することは、このような能力を養う教育にアクセスできるか否かが、「家庭がどれだけ裕福か」という点に掛かってくるようになることを意味している。まあ賢い人間が富裕層や一部の特権階級にだけ集中しているのは、それらの層にとっては都合の良いのだろうが、社会全体としては余り良いことのようには思われない。

余談だが、大学生の就職難という問題に関連して、「大学(生)の数が多すぎる」ということが言われることがある。これは正しいのかもしれないけれど、上記の能力を陶冶する機関が大学ぐらいしかないという問題も考えるべきであり、そのチャンスを狭めることは、果たして正しいのか。この点に目を瞑る「大学(生)多すぎ減らせ」論は、私はあまり信用できない。

まあ、(比較的)良い教育を受けてもそれをなかなか活かせなかった自分が言うことじゃないけど。

*1:元々無かったのかもしれないが。

*2:私のこの文章での「賢い」というのは、単に学力的な意味というよりは(これも無関係でないけど)、社会の構造を感知したり、問題意識を持ったり、或いは世間一般の物の見方から違った方向からものを見てみるとか、そういう感じの意味ですな。以下同じ

*3:私自身はこの種の賢さを持っているとは到底思えないwが、こういう賢さが存在し得るというのは、大学で初めて学んだことである。高校までにおいては、あくまでも何らかの権力・制度や常識に逆らわない、それらの前提を疑わない上での賢さしか求められていなかったように思う。(これは高校までは田舎の公立だったからそう思ったので、例えば都会の名門高校出身だったりしたら、また違うのかもしれない。以前twitterで「都立高校あるある」タグが流行ったが、そこで語られる高校の姿というのは、私の経験した高校とは大きな開きがあるものであった。だからケースバイケースというところも無くはないだろう。)

ミニットマン蒼星石

「すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」
アメリカ独立宣言

・・・ドールも、また同じだ。
というわけで、色塗ってないが、アメリカ合衆国独立記念日にちなんで、ミニットマン蒼星石を。


気が向いたら色を塗ったり修正したりする。まだ落書きだし。

魔法少女蒼星石2011年7月よりエレバン放送にて放送開始!(ネタです)

魔法少女の青い子コスの蒼い子を描いた&それをネタに駄文を書いた。
あいかわらずへぼい。それなりに頑張ったのだが。
まあ絵を描く経歴が短いから仕方ない。
勉強と練習を積まねばなるまいな。

しかし元ネタのあの子は可哀想というかなんというかね。

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