第28期東京都青少年問題協議会について

表現規制問題を扱っているブログ界隈で話題になっている、第28期東京都青少年問題協議会について

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この中でも特筆すべきは、大葉ナナコなる人物の発言であろう。

例えば児童に対する児童ポルノの愛好者の人たちが児童に悪影響を与えるとか、漫画のひどいものが出ているといったら、その人たちはある障害を持っているんだというような認識を主流化していくことはできないものかというのを、お話を聞いていて思いました。
(第8回28頁)

気になる人は、第8回議事録の、28-9頁を御覧ください。私はこの発言を聞いて、「歴史は繰り返すのか」という思いを抱き、陰鬱たる気分にさせられた。彼女は、「日本誕生学協会」という団体の理事だそうだが、「優生学協会」の間違いではないだろうか?

もし障害を持っているとしたら、どうするかね。アウシュビッツにでも送るかね。それともダッハウか?そしてその後どうするかね?銃殺するかね?それともツィクロンBで殺すか?


さらに、新谷という、PTAの人の発言もひどい。

言論の自由とか表現の自由とおっしゃいますけれども、それはプラスα、芸術性のあるときだと思います。それから、自由があれば責任もある。そういったときに、幼児とか、ああいったものが本当に言論の自由表現の自由の「自由」に当たるのか。そういったものを社会が、私たちが許せるのかというのは多いに議論をして考えていかなくてはならないと思います。やはり社会としてのモラルとか、品格とか、いろいろなものへの影響、そういったもののマイナスを考えれば、自由とか、そういったものの権利とかプラス、そういったものも減じられるというか、なくなると私は思います。親として、社会の構成員としても、日本の将来を憂うる一人として、本当にこういったものが規制もなく存在するということはなくしていただきたい。なくすべきだと思います。
(第7回34頁)

この人のいう「芸術」を決めるのは、一体だれであるか。この人は、「芸術」なるものが、常に固定的なものとしてあるという認識を持っているようだ。だが、それは誤りだ。「芸術」は、常に流動的だ。便器だって「芸術」になりうる。

「芸術」に値しないものに対しては、自由が保障されないと、彼女は言う。かつて、同じような考えを持っていた、そしてそれを実行した連中が居た。ナチスだ。彼らは、前衛的な芸術を、民主主義的・反ナチ的な小説を、「退廃的」「非ドイツ的」とし、葬り去ろうとした。そのいずれもが、今では多くの人が「芸術」と認められているものだ。

自由が、容易には変えがたい憲法典において明記されているのは、こうしたことを防ぐためでもある。一時の風潮に流されて、後の世において認められるかもしれない作品を葬り去るのは、子孫に対する罪、人類に対する罪、歴史に対する罪である。そもそも、「社会」なるもの*1の認めるものにしか、自由が与えられないとするなら、日本国憲法第21条も合衆国憲法修正第1条もいらないんだよ。

それにしても、この人たちは、反対者の「創作物規制が性犯罪対策に有効な根拠を出せ!」という異議申し立てに対して、それに真摯に答えようとすることはせず、「証拠など必要ない!」ということを言っている。これは、戦術としては正しい。なぜならば、性犯罪と創作物が関連するという証拠は、元々無いからだ。証拠が無い以上、「証拠」という土俵の上で戦えば、自身の敗北は必死だ。だから、「証拠があるかどうかは関係ない」と強弁することは、戦術的には正しい。だが、私は、このような彼らの姿勢を「卑怯」だと思う。

*1:コレも抽象的な概念だ。新谷のいうそれには、こういうのを趣味や仕事とする人間は、最初から排除されているのだろう。