「規制は表現を豊かにする」から正当化されうるか?
結局は自公政権が続くのか? - 立憲民主主義と日本国民の安全を考える有志のブログ
上の記事で採り上げられている雑誌の記事を直接読んだことはないので、語るのは不適当かもしれないが。
とりあえず、次の点について
企画面で必死にさせるいい刺激薬になるかもしれない 規制が業界としてチャンスだと思っている筆者は、少数派ではないはずだ。
このような、「規制によって表現の豊かさが高まるのだから、規制には好ましい部分もある」という考え方もあるにはある。しかし私は、これに対してはキッパリと反対したい。
これには、2つ理由がある。
- 表現規制によって、良い作品が出てくる可能性は未知数であるが、他方、規制によって、確実に失われる作品は必ずでてくるから。
- 規制によって生まれた作品の存在でもって、その他多くの作品の死を贖うことはできないから。
1番の理由について。
表現規制によっていい作品が出てくるだなんて、そんなものは憶測に過ぎないのであって、誰にもわからないのである。他方で、創作物のエロを滅ぼしたいと望む連中は現に存在していて、そして規制を進めているのである。これを考えるなら、どっちの方が確率が高いかはわかりそうなものである。
2番目について。
もし、規制を乗り越えて、素晴らしい作品が出てきたとしよう。だが、その影には、数百、いや数千、あるいは数万かもしれない、闇に葬られた作品・表現が存在するのである。1つの作品でもって、その滅び去った作品の死を正当化することができるのか?
格闘家や武道家のエピソードでよくあるものに、「子供のころいじめられていたが、強くなるためにその競技をはじめ、最終的に成功した」というのがある。さて、素晴らしい格闘家を生み出したのだから、いじめは正当化されるべきなのだろうか?答えは言うまでもないだろう。彼・彼女自身はいじめを乗り越え、成功したかもしれないが、その陰には、命を絶った数多くの人びと、そしてさらに多いであろう、体や心に傷を負った人びとがいるのである。
むすび
たとえどんな偉大な人物を生み出そうが、いじめは悪である。同様に、どんなにいい作品を創り出したとしても、表現規制もまた悪なのである。
余談
あと、本論とはあまり関係ないが、
今後規制が厳しくなっても、また暖かくなる時期が必ず来る。それまでは耐え忍んでいきたい。
という意見に対して。こういう意見を聞くと、
しかし権力の乱用や強奪が長くつづき、絶対専制支配の下に置こうとする意図が明らかで、その同じ目的をずっと追求しようとしているときには、そんな政府をなげすて、自分たちの将来の安全を新たに防護してくれる政府を求めるのが義務である。
なんて文言を、独立宣言に盛り込んだジェファソンらアメリカ建国の父祖との対比を感じさせられる。悪い意味で。
アメリカ独立宣言は、「悪い政府を投げ捨て、新しい政府を求めるのは義務だ」と言っているわけで、「悪い政府に統治されている間は、より良い新しい政府が登場するまで我慢しましょう」とは書いていないわけだ。
まあ、私も他人に、「権利のための戦い」を強要できるほど、力を入れているわけではないけど、その意思さえ見せないなんて…、と思う。